マイケル・シェンカーの軌跡と影響:UFO時代から現在まで

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Doctor Doctor誕生の夜

真夜中にエコー装置のセッションルームで、一人の若者が新しいフレーズを手探りで生み出す。1973年、Scorpionsでの活動を経てUFOに加入した18歳のマイケル・シェンカーは、ロンドン郊外のアンダーグラウンドステーションのエスカレーターで仲間たちとすれ違ったとき、安物のテープレコーダーで録音したギターのループを鳴らした。「これすごいよ!」と叫びながら、ギター・リフの原型を作り上げていた。そして仲間のフィル・モグ(UFOのボーカリスト)を部屋に呼び、コードだけを弾いて見せると、モグは曲想を膨らませて歌詞を書き上げた。こうして「Doctor Doctor」のゴリゴリしたリフと高揚感あるサビが生まれた。 ステージでは「Doctor Doctor」はUFOファンを熱狂させた(初期BBC出演ではドラマーのピート・ウェイさえステージ上でハプニングを起こしたという逸話もある)。数年後、この曲はライブ盤『Strangers in the Night』の冒頭を飾り、アイアン・メイデンがコンサートのオープニングSEに据えるほどの名曲となった。

UFO脱退の行方

UFO在籍時代、シェンカーはバンドをメジャーへ押し上げた存在だったが、やがて内なる葛藤が芽生える。1979年リリースのライブ盤『Strangers in the Night』を完成させた直後、シェンカーは「自分には自分の方向性がある」と感じ、グループから去ったと語っている。「みんなと同じ方向に行きたくなかった」「ストレンジャーズ~が終わったらUFOから抜けた」という彼の言葉は、自分だけのビジョンを追い求めた証だ。彼はその後、一時的に実兄ルドルフのScorpionsに復帰したが、自分の音楽が求められていないと感じて去り、再び自らのバンドMSG(Michael Schenker Group)を結成した。 ちなみに、この時期の脱退がUFOにどのように告げられたか、元メンバーたちは印象深く語っている。UFOのフロントマンであるフィル・モグは、1993年の再結成の際にシェンカーを説得するため渡米し、50%のバンド権利を要求した逸話が残っている。こうしたやり取りは、バンド内での信頼とビジョンの相違を如実に示している。

グラハム・ボネットとの共演と亀裂

MSG結成当初は、ボーカリストにアメリカ人のゲーリー・バーデンを迎えた。しかしセカンドアルバムの出来に満足しなかったマネジメントサイドは、サードアルバム制作時にゲイリー・バーデンに替えて引き抜かれたのが、元Rainbowのシンガー、グラハム・ボネットだった。彼は威厳ある声でアルバム『Assault Attack』(1982年)を彩り、この作品だけでしか共演しなかった。音楽的化学反応は良好だったが、運命は皮肉な事件を用意していた。シェンカー自身の語るとおり、1982年の英国でのライブでボネットは「午前中から飲んでぐでんぐでん」になり、2曲目終了後(3曲目の途中)にステージから姿を消してしまったのだ。 客席の歓声が徐々に不協和音に変わり、ボネットは歌詞シートがめちゃくちゃにされるのを見て激怒する。罵声を浴びせながら衣装のファスナーが壊れ、あろうことか“あの部位”が露出する一幕まで起き、「ああもう、これだ」と叫んで彼はステージを降りていったという。シェンカーはその様子にまったく気づかず、隣を見るとボーカルがいない。「気づいたらボネットがいなくなっていた」と述懐し、そのままゲストドラマーのテッド・マケンナが残りの曲を演奏した。翌朝、ボネットのマネージャーは彼に解雇を告げ、2人の間は「26年もの間、一切連絡が途絶えた」。シェンカーは後に「グラハムに恨みはない。もう抱えていない」と淡々と語っている。
結局、MSGのラインアップは再びゲーリー・バーデン(後にはロビン・マコーリー)に戻ったが、この騒動は互いに「自分らしくあろうとした」結果であり、シェンカーは「MSGに入った人間は100%自分を出せる」と振り返っている。

コージー・パウエルのMSG脱退

シェンカー組を支えた重厚なリズム隊の一人が、ドラマーのコージー・パウエルだった。しかしシェンカーがUFO時代の盟友・デビッド・カヴァーデイル(当時Whitesnake)からホワイトスネイクへの加入を誘われると、シェンカーは逆に「お前がMSGに来い」と応じた。カヴァーデイルはこれに激怒し、なんとコージーをMSGから引き抜いてWhitesnakeに連れて行ってしまう。そしてMSGはテッド・マケンナを新ドラマーに迎えた。この一幕についてシェンカーは「カヴァーデイルに‘CoverdaleをMSGに入れないか?’と提案した途端、俺が顔を上げたらコージーがいなくなってた」と語り、もはや事態を笑い話のように語っている。 事実、1982年のWhitesnakeツアー終了後にコージーは正式にMSGを脱退しており、Whitesnakeのツアーラインナップに加わっている。つまり、カヴァーデイル問題に端を発した人事のもつれが、ドラマー交替という形で実を結んだのだ。

元マネージャー、ピーター・メンチの功罪

MSG初期からバンドを支えたのがマネージャーのピーター・メンチであった。メンチは野心的な人物で、MSGにもビッグビジネスを求め続けた。実際、81年には『ロンドン・キープ・アローン』の日本録音ツアー(通称武道館ライブ)をメンチが発案・手配している。このライブ・アルバム化によってMSGは日本での知名度を一気に高め、シェンカーはデビュー2年で日本武道館のステージを踏む幸運を得た。 しかしその道程は決して平坦ではなかった。メンチは選曲や人選に干渉し、時にはシェンカー自身と衝突した。先述のCoverdale誘致もメンチの発案で、シェンカーが反対すると「どうしてCoverdaleをMSGに入れないのか」と責められたという。さらにはレコーディング中にメンチとバンドが対立し、バンドは一時マネージャーを外す事態にも陥った。例えば日本武道館のライブアルバム制作の際、メンチはドラムミックスに注文をつけ、これに怒ったコージーがメンチをスタジオから追い出したエピソードが残っている。メンチの手腕は両刃の剣でもあった。シェンカーは1980年代後半、「もう引退したい」とも思った時期に「メンチがビッグビジネスをまだ続けたがっていた」ため、自分を引き止められ、活動を続けざるを得なかったと振り返っている。メンチが生んだ日本武道館公演は功績だが、その強引さゆえに確執も生じた。シェンカーは後に「メンチと組んだこの10年間で、いろいろなことを経験した」と淡々と語っており、その多面性を物語っている。

1992年・来日公演直前のキャンセル

90年代に入ると、MSGの来日公演を巡る大混乱が起きた。1992年、MSGの日本ツアーが急遽予定されていたが、なんと当時のマネージメントがシェンカーに断りなく契約を結び、チケットを売り出していたというのだ。シェンカー本人はその事実を知らず、直前になってこれを知り激怒。「自分を通さずに来日公演を組むとは何事だ!」と怒り狂ったという。当時彼はバンドからMSGを解散し、マネージャーとの契約も打ち切ったばかりであり、結局来日公演は中止となった。この事件は彼の自律性を象徴する出来事でもあり、外部からの介入に対する彼の強い反発心を示している。

2006年・中野サンプラザでの事件

来日を巡るトラブルはその後も続いた。特に有名なのが、2006年11月の東京・中野サンプラザでのMSG公演である。当時のシェンカーは酷い二日酔い状態でステージに上がり、演奏開始からわずか2曲(3曲目の途中)でギターを投げ捨ててステージを降りてしまった。楽屋裏で待っていたバンドメンバーたちは驚愕し、係員が止めに入る始末。予備日とされていた大阪公演は中止となり、後に別日に振替公演が組まれた(しかしファンには長年語り草となった)。シェンカー自身はこの件を後に謝罪し「酔っ払っていた」と認めたと同時に「二度と同じことはしない」と誓ったというが、これに先立つ1998年4月にも、UFO名義のライブでシェンカーが演奏を放棄して去っており、本人もその時は「メンバーへの不満爆発だった」と語っている。これらの劇的な「ステージ放棄」は、彼の情熱と翳りを象徴するエピソードとして語り継がれている。

マイケル・シェンカー現在の活動と遺産

21世紀に入ってもシェンカーは常に前進を続けている。2016年には「Michael Schenker Fest」と称し、かつてMSGで歌った3人(ゲーリー・バーデン、グラハム・ボネット、ロビン・マコーリー)とともに日本を含むツアーを敢行した。2021年には再びMSG名義でアルバム『Immortal』を発表、翌2022年には新ラインナップで『Universal』をリリースしている。
最新作では、2014年頃のサウンドを意識したロック曲に加え、UFO時代の名曲カバー集『My Years With UFO』(2024年)を発表し、アクセル・ローズやスラッシュ(ガンズ&ローゼズ)、ジョー・リン・ターナーらがゲスト参加した。2025年にはさらなるオリジナルアルバム2作を控えているという。
周囲のバンドメンバーたちも、シェンカーの才能を高く評価している。長年の相棒である歌手ゲーリー・バーデンは、MSGデビュー作の制作当時を振り返り「当時のシェンカーは抜け殻のように痩せていたけれど(薬物から)立ち直っていて、俺たちの化学反応は即座に生まれた」と語っている。一方、実兄のルドルフは「天国と地獄の狭間にいた。ギターの腕は最高潮だったが、精神はひどく傷ついていた」と証言し、褒め称えつつもシェンカーの苦悩に言及している。他のミュージシャンも彼の影響力を認めており、彼自身も「アメリカではみんな俺のギターをコピーしていると言われた。70年代に作ったスタイルが80年代に広がっただけだ」と自嘲気味に笑う。
マイケル・シェンカーの功績は計り知れない。ハードロック/メタル界には彼のギター・スタイルを継承する者が数多く存在し、複雑なフレーズながら感情豊かなプレイは多くの後進に影響を与えた。多弦リフやスケールを駆使した速弾きだけでなく、繊細なアルペジオやクリーントーンのメロディをも武器としたその演奏は、静かな夜のヴァイオリンのようでもあり、雷鳴のようにも響く。
しかし光と影は表裏一体である。彼自身も公言しているとおり、1980年代後半にはステージ恐怖から安定剤に頼り、薬物依存へと陥ったことがあった。夜ごと「頭にウェルナット(麻薬用睡眠薬)を詰め込んだ」と自虐的に語るように、彼はやがて自ら「入院」を経験した。兄ルドルフが言うように「その頃のシェンカーは、精神が壊れかけていた」が、幸い本人は懸命のリハビリにより立ち直り、今もギターを手放さず旅を続けている。ステージでギターを叩きつけたあの日からも年月は流れ、彼はいま穏やかに語る。 ミュージシャンとして、男として、シェンカーは常に発展を求めてやまない。「すべてが変化し続けるから、同じ場所にいたくない」と彼は言う。
若き日の熱情と苦悶、その両方を抱えてなお前を向く姿勢こそが、マイケル・シェンカーの魅力である。そして今後も彼のフライングVは、世界中のステージでその独特な歌声を鳴らし続けていくことだろう。

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