静寂の中の序曲
広大で、しばしば荒れ狂うプログレッシブロックという大海原において、壮大なコンセプトと複雑な旋律が、移ろいやすい流行の潮流とせめぎ合う中で、ルネッサンスという名の独特な船が存在する。それは過ぎ去りし時代の灰燼から生まれ、クラシックの荘厳さ、フォークの親密さ、そしてロックの生々しい力を絶妙に融合させ、どこか幽玄でありながら、深く人間的な音を紡ぎ出した。彼らの旅路は、まるで村上春樹の小説のように、静かな変容、予期せぬ転換、そして最後の音が消え去った後も長く残る、ある種の微かな憂愁に満ちている。
この記事は、僕が彼らの音のタペストリーに織り込まれた複雑な模様を辿ることを目的としている。その黎明期のささやきから、現在に至るまで響き続ける残響まで、彼らの運命を形作った主要な人物、時代を定義した傑作、彼らが立った舞台、そして彼らの旋律が独自の共鳴を見出した遠い異国の地、特に日本の記憶を探求する。これは単なる音楽の物語ではない。それは、粘り強さ、芸術的な進化、そして異質な要素が融合し、真に唯一無二の何かを生み出す静かな魔法の物語なのである。本稿では、プログレッシブロックの深淵に分け入り、ルネッサンス、アニー・ハズラム、マイケル・ダンフォード、シンフォニックロックの真髄、そして彼らの日本公演の歴史を詳細に紐解いていく。
黎明期の幻影:ヤードバーズの残響
結成の物語:キース・レルフとジム・マッカーティの初期構想
僕が初めてルネッサンスというバンドの存在を知ったのは1969年のことだった。それは、元ヤードバーズのボーカリスト、キース・レルフとドラマーのジム・マッカーティによって結成された、興味深い派生プロジェクトである。彼らの野心は明確だった。ブルースロックのルーツから離れ、「もっとクラシックの影響を取り入れた何か」を創造すること。この初期の閃き、慣れ親しんだものへの静かな反抗が、バンドの未来の音の探求への舞台を設定したのである。
しかし、バンドの歴史を紐解くと、その「ルネッサンス」(再生)という名が、単なる音楽ジャンルの融合を超えた、バンド自身の存在論的な変遷を予言していたかのように思える。レルフとマッカーティによる最初の結成は、クラシックへの傾倒という明確なビジョンから始まったものの、ツアーの疲労により、このオリジナルラインナップはすぐに解散の道を辿った。彼らのセカンドアルバム『イリュージョン』のレコーディング中に、バンドは事実上「崩壊」し、その完成には新たなミュージシャンが必要とされたほどである。この初期のビジョンは、確かに後のルネッサンスの礎を築いたが、バンドがその真の姿、すなわちクラシックの影響を深く内包する独自のサウンドを見出すためには、一度解体され、完全に異なるメンバーによって「再生」される必要があった。それは、舞台は同じなのに、登場人物が入れ替わる夢のようなもので、その時初めて、本当の物語が静かに幕を開けたのだ。
初期作品の風景:サイケデリック・フォークの試み
彼らのセルフタイトルのデビューアルバム『ルネッサンス』は1969年にアイランド・レーベルからリリースされた。この初期の時代、後に象徴となるアニー・ハズラムが加わる前の作品は、「より強いサイケデリックな影響」とフォーク志向のサウンドを特徴とし、フェアポート・コンベンションのようなバンドと比較されることもあった。キースの妹であるジェーン・レルフと男性ボーカリストが分担していたボーカルは、後にバンドを特徴づけることになる魅惑的な質を欠き、「平凡」と評された。しかし、この黎明期に宿っていた「独特の憂愁」は、まるで遠い風に乗って運ばれてくる微かな香りのように、彼らの後の、より称賛された作品群にも密かに浸透していったのである。
転換点:マイルズ・コープランドの介入とメンバー交代
オリジナルラインナップは、ツアーの過酷さから疲弊し、1970年頃から徐々に解体していった。レルフとマッカーティは演奏活動からの引退を選び、バンドは事実上、セカンドアルバム『イリュージョン』(1971年)のレコーディング中に「崩壊」し、その完成には新たなミュージシャンが不可欠となった。この流動的な時期には、まるで音楽的な流砂のように次々とメンバーが入れ替わり、やがて新たな、安定した核が姿を現すことになる。
転機は、マネージャーのマイルズ・コープランド三世の登場によって訪れた。彼は1971年のある時期、バンドを「再編成」することを決意し、アニー・ハズラムの歌声とジョン・タウトのピアノという、バンド内に芽生えつつあった強みを見抜いた。コープランドは、UKパンクとニューウェーブシーンにおけるその影響力で知られる人物であり、以前にも自身のBTM(ブリティッシュ・タレント・マネジメント)レーベルを通じてルネッサンスをマネージメントしていたが、その事業は最終的に大きな損失を被っていた。彼のルネッサンスに対するビジョンは、ピアノと女性ボーカルを前面に押し出すというもので、これはプログレッシブロックの領域において際立ったアプローチだった。この戦略的な再編こそが、ルネッサンスの真の「再生」を告げるものとなり、バンドは初期の静かな残り火から、不死鳥のように蘇ったのである。
音の再生:アニー・ハズラム時代の幕開け
クラシック・ラインナップの誕生:奇跡の声と作曲の才
僕が「クラシック・ラインナップ」と呼ぶものが、1972年頃にその形を成した。アニー・ハズラム(ボーカル)、ジョン・タウト(キーボード)、ジョン・キャンプ(ベース)、テリー・サリバン(ドラム)、そしてマイケル・ダンフォード(作曲、後にギター)がその顔ぶれである。この編成は、しばしば「第二期」と呼ばれ、1970年代におけるバンドの最も有名な、そして称賛された作品群を生み出すこととなる。
この時期のバンドのサウンドを深く理解する上で、マイケル・ダンフォードという人物の存在は欠かせない。彼は常に主要なソングライターであり、作曲家としてその名を挙げられている。彼の音楽的素養は、ロシアの作曲家たちに加え、エルトン・ジョン、ピンク・フロイド、EL&Pといった多様なアーティストから影響を受けており、それがルネッサンスの楽曲に「独特の憂愁」や「東欧的な」響きをもたらした。興味深いことに、『プロローグ』というバンドの「黄金期」の幕開けを告げるアルバムにおいて、彼はギタリストとしてはクレジットされておらず、作曲に専念していた。ギタリストとしての役割はロブ・ヘンドリーが担い、ダンフォードは後にアコースティック・ギタリストとしてバンドに復帰する。この事実が示唆するのは、彼の主要な貢献が楽器演奏の妙技(もちろん彼もギタリストではあったが )ではなく、むしろその作曲の才、すなわち「旋律の建築家」としての役割にあったということである。彼自身が「私はギタリストというより、作曲家/ソングライターだ」と語っていることも、この見方を裏付けている。彼の舞台裏での存在は、他のメンバーがその上で舞い踊る音の聖堂を築き上げ、バンドの独自のサウンド、特にその「独特の憂愁」と「東欧的な」感覚 を形成する上で、計り知れないほど深遠な影響を与えた。彼は、まさに静かなる力、他者が住まう音の建築物を築き上げた人物だった。2012年の彼の逝去は、そのかけがえのない貢献を深く印象づける出来事であり、彼の旋律は今もなお、深く響き続けている。
| メンバー名 | 担当楽器/役割 | クラシック・ラインナップ在籍期間 (概算) | 主な貢献 |
| アニー・ハズラム | リード・ボーカル | 1972-1980 | 5オクターブの歌声、バンドの象徴的存在 |
| マイケル・ダンフォード | ギター/作曲 | 1972-1980 | 主要なソングライター、クラシック/フォーク融合の基盤 |
| ジョン・トゥート | キーボード | 1972-1980 | クラシックに影響を受けたピアノ演奏、シンフォニック・サウンドの核 |
| ジョン・キャンプ | ベース/ボーカル | 1972-1980 | メロディックで力強いベースライン、作曲にも貢献 |
| テリー・サリバン | ドラム/パーカッション | 1972-1980 | ダイナミックなリズムセクション、複雑な拍子を支える |
代表作の光彩:シンフォニック・ロックの極致
『プロローグ』から『お伽噺』へ
新たなラインナップによるデビュー作『プロローグ』(1972年)は、EMI-Sovereignからリリースされ、大きな一歩となった。マイケル・ダンフォードは主に作曲家であり、ギタリストではなかったものの(ロブ・ヘンドリーがその役割を担った)、このアルバムはアニー・ハズラムの「美しい歌声」とジョン・トゥートの「クラシックに触発されたピアノ演奏」を際立たせた。インストゥルメンタル曲「プロローグ」や、男性ボーカルがリードする「キエフ」のような楽曲は、クラシックの影響と萌芽期のプログレッシブロックの感性を融合させ、バンドの未来の方向性を示唆していた。
『アッシュズ・アー・バーニング』(1973年)では、マイケル・ダンフォードがアコースティック・ギタリストとして復帰し、クラシック期の5人編成ラインナップが確立された 。このアルバムは、彼らが初めて米ビルボード200にチャートインした作品となり、171位を記録した 。タイトル曲は、ウィッシュボーン・アッシュのアンディ・パウエルによるゲスト・エレキギター・ソロをフィーチャーし、ライブではしばしば20分以上に延長されるアンセムとなった。
バンドは『シェヘラザード・アンド・アザー・ストーリーズ』(1975年)で、オーケストラとの融合を本格的に追求した。その25分に及ぶタイトル曲「シェヘラザードの歌」は、「超傑作」であり「奇跡」と称され、オーケストラとの共演によってバンドの全力が発揮され、「大きなうねり」を生み出し、音を「繊細なメロディ」へと変容させた。このアルバムは、『ターン・オブ・ザ・カーズ』(1974年)と共に、ドラマティックで複雑な構成と、フォーク、伝統音楽、クラシック音楽の独自の融合による彼らの評判を確固たるものとした。
『お伽噺』と「北の光」の成功
『ノヴェラ』(1977年)は、彼らのシンフォニックな旅を続け、米国で46位を記録した。批評的には賛否両論があり、一部には「崇高」で「最も芸術的」であり、「メロディはいつもより少し陰鬱」と評された一方で 、他の意見では「型にはまっていて退屈」、あるいは「インスピレーションが衰えている」 という声もあった。このアルバムのジャケットは、米国版の「修道女のような姿」が英国版では変更された点が注目される。
『ソング・フォー・オール・シーズンズ』(1978年)は、彼らにとって英国で最も商業的に成功したアルバムとなり、UKアルバムチャートで35位、ビルボード200で58位を記録した。このアルバムには、1978年7月に10位を記録した彼ら唯一のUKトップ10シングル「ノーザン・ライツ」が収録されている。このアルバムは、「夢見る日の歌」やタイトル曲のような長尺のプログレッシブな叙事詩を含みつつも、「よりポップ志向の素材に手を出」し始め、一部の楽曲はABBAと比較されることすらあった。これは、彼らのサウンドにおける微細ながらも重要な変化、静かにページがめくられた瞬間を示していた。
ルネッサンスは、そのシンフォニックでクラシック的な傾向にもかかわらず、「ノーザン・ライツ」という楽曲で商業的な成功を収めた。このシングルは、『ソング・フォー・オール・シーズンズ』という、ポップへの「過渡期」にあると評されたアルバムから生まれたものである。この事実は、バンドの核となるアイデンティティが複雑でオーケストラ的なプログレッシブロックであったことと、彼らの最大のヒット曲がポップ志向であったこととの間に、ある種の緊張関係が存在したことを示唆している。これは、おそらく自然な流れとして、より幅広い層へのアピールを試みた結果であり、同時に彼らの「孤高の壮麗さ」を希薄化させ、一部のプログレ純粋主義者を遠ざけるリスクも孕んでいた。「ノーザン・ライツ」の成功は、主流の光を浴びた一瞬の輝き、80年代の影が降り立つ前の、束の間の明るい閃光だったのである。このバンドの旅路は、70年代後半のプログレッシブロックが直面した、商業的圧力とパンク/ニューウェーブの台頭というジレンマ、すなわち芸術的誠実さをいかに維持するかという課題を反映している。彼らの短期間のポップミュージック市場での成功は、妥協の瞬間、彼らのシンフォニックな風景の地平線に現れた、きらめく蜃気楼を浮き彫りにしている。
主要メンバーの肖像:音を紡ぐ魂たち
アニー・ハズラム:五オクターブの歌姫
アニー・ハズラムの驚異的な5オクターブの歌声は、僕にとって、ルネッサンスのサウンドの紛れもない中心だった。その歌声は、「クリスタルのよう」「天使のよう」、そして「神々しいほど美しい」と、ほとんど畏敬の念をもって形容され、その純粋さと英国英語の発音における「品格」は、彼女を他のシンガーから際立たせた。彼女は、「成層圏のクライマックスの音」を「やすやすと」出し、それを維持するという稀有な能力を持っていた。多くの歌手が苦悶の表情で試みるような芸当を、彼女は驚くほど軽々とやってのけたのである。彼女の歌声は、バンドの複雑な楽曲を導く光となり、緻密な音楽的アイデアを深遠な感情的体験へと昇華させた。
マイケル・ダンフォード:旋律の建築家
常に最も目立つ楽器奏者ではなかったかもしれないが、マイケル・ダンフォードの主要なソングライターおよび作曲家としての役割は、ルネッサンスの独自のアイデンティティの礎石であった。彼は独学のギタリストであり、自らを「ギタリストというより、作曲家/ソングライター」と見なしていた。彼の楽曲は、しばしば「独特の憂愁」と「東欧的な」感覚に満ち、ロシアの作曲家、エルトン・ジョン、ピンク・フロイド、EL&Pから影響を受けていた。彼は、アニーの歌声がその上を舞い上がるための音の風景を築き、彼らのシンフォニックなサウンドを特徴づける複雑な旋律とドラマティックな構成を創り出した。2012年の彼の逝去は深い空白を残したが、彼の旋律は、没後リリースされたアルバム『シンフォニー・オブ・ライト』が示すように、今もなお響き続けている。
ジョン・タウトとジョン・キャンプ:音の深淵を支える者たち
ジョン・タウトのクラシック教育を受けたピアノ演奏は不可欠であり、ルネッサンスにその独特の「シンフォニック」な性格を与える豊かな和声的基盤と複雑な対位法を提供した。彼の貢献は、彼らの音楽を「ピアノ協奏曲」のようにも感じさせた。ジョン・キャンプのベースワークも同様に極めて重要で、「力強く」「精巧でメロディック」「絶え間なく動き続ける」と評され、複雑なアレンジメントに不可欠なリズム的およびメロディックな基盤を提供した。テリー・サリバンのダイナミックなパーカッションと共に、彼らはバンドの複雑な拍子の変化を正確かつ巧みに操る能力を持つリズムセクションを形成した。これらのミュージシャンは単なる伴奏者ではなかった。彼らは共同制作者であり、それぞれがルネッサンスのサウンドの深遠な奥行きに貢献したのである。
舞台上の魔法:ライブ活動の軌跡
カーネギー・ホールでの伝説:オーケストラとの共演
僕が彼らのライブについて語るとき、まず頭に浮かぶのは、単なるコンサート以上のものだったということだ。それは、しばしばフル・シンフォニー・オーケストラの存在によって高められる、没入型の体験であった。この時代の頂点は、1976年の象徴的なアルバム『ライブ・アット・カーネギー・ホール』であり、これはバンドにとって「すべてのライブショーの母」であり、「プログレッシブロックの傑作」と広く見なされている。このアルバムは、バンドがその複雑でオーケストラ的な楽曲をステージ上で完璧に演奏できることの決定的な証拠となり、これはどんなプログレッシブロック・アンサンブルにとっても稀有な偉業である。このアルバムに収録された「アッシュズ・アー・バーニング」のライブ・バージョンは、その拡張されたインストゥルメンタル・パートと驚異的なベース・ソロにより、しばしばスタジオ版よりも優れていると評される。
ルネッサンスのライブ・パフォーマンスに関する記述は、単なる技術的な熟練度を超えたものだった。それらは常に「魔法」、「比類なき美しさ」、「祝祭的な高揚感」、そして「神聖」 といった言葉で表現された。複雑でオーケストラ的な楽曲をライブで完璧に再現する能力は、彼らの芸術への深い献身を示唆している。『ライブ・アット・カーネギー・ホール』が「傑作」であり、「ルネッサンスの音楽を知るための最高のポストカード」 と見なされている事実は、彼らのライブ・パフォーマンスがアルバムの単なる補足ではなく、彼らのサウンドの決定的な表現であったことを示している。それはまるで、ステージが儀式的な空間へと変容し、彼らの緻密な音楽のタペストリーが新たに織りなされ、それぞれの演奏が、既知の夢のユニークでありながら忠実な展開であったかのようだった。ルネッサンスにとって、ライブ・パフォーマンスは単に楽曲を演奏することではなかった。それは、「シンフォニック・ロック」の体験を体現し、伝達することであり、しばしばオーケストラによって強化され、聴衆との間に深く、ほとんど精神的な繋がりを生み出したのである。このため、彼らのライブ・アルバムは、バンドの真髄を理解するために不可欠な聴取体験となっている。
完璧な再現性:ライブにおけるバンドの真髄
批評家もファンも、僕が知る限り、ルネッサンスが複雑なスタジオ・アレンジメントをライブで「力強い正確さ」と「完璧な再現」でこなす能力を一貫して称賛した。アニー・ハズラムのボーカルの才能は衰えることなく、その5オクターブの音域をやすやすと操った。バンドメンバーと伴奏オーケストラとの間の相互作用、特にジョン・タウトの繊細なピアノ演奏とジョン・キャンプのメロディックなベースラインは、典型的なロックとオーケストラの組み合わせを超越した、深い統合を示していた。これらは単なるコンサートではなく、ロックバンドとオーケストラのバランスが流動的で、持ちつ持たれつの関係で機能する、綿密に構築された試みであった。
観客との対話:音と空間の共有
僕が彼らのコンサートに足を運んだとき、いつも感じたのは、その雰囲気がしばしば「高揚感に満ち」て「祝祭的」であり、「美しさ、メロディ、ドラマ」が肌で感じられるものだったということだ。熱心な聴衆は、フォーク、演劇、オペラの要素が散りばめられたバンド独自のシンフォニック・プログレの融合に深く共鳴した。これらのパフォーマンスは、彼らの音楽の「神秘的で感動的な雰囲気」が聴衆を包み込み、「癒し」の体験と安らぎをもたらす共有空間を創り出した。それは、リアルタイムで展開される集合的な夢であり、演奏者と聴衆の境界線が曖昧になり、深く共有された瞬間に溶け込んでいったのである。
遠い東の響き:日本公演の記憶
アニー・ハズラムのソロ来日:1991年の邂逅
僕の記憶では、彼らの音楽がこの遠い東の島国、日本に初めて響いたのは、バンド全体としてではなく、アニー・ハズラムという一人の歌姫のソロ活動によってもたらされた。1991年、アニー・ハズラムはソロとして日本青年館の舞台に立った。その夜、聴衆は「オーシャン・ジプシー」のイントロが聞こえた時、静かに涙ぐんだ。それは、長らく待ち望まれた邂逅の瞬間であり、彼女の歌声が日本の聴衆の心に直接触れた証であった。しかし、コンサート評が示すように、ルネッサンス以外の楽曲に対する観客の反応は控えめだった。この事実は、彼女の歌声がバンドのサウンドと深く結びついて記憶されていたことを物語っている。当時の日本には、ジョージ・ハリスンやエリック・クラプトン、ザ・タイムといった様々なアーティストが来日しており、音楽シーンは活況を呈していたが、ルネッサンスとしての来日はまだ先のことだった。
ルネッサンスとしての日本公演:2001年の再訪とそれ以降
僕が待ち望んでいたルネッサンスというバンドとしての日本への再訪は、それから10年後の2001年に実現した。この時は、アニー・ハズラムと主要なソングライターであるマイケル・ダンフォードを中心に、レイヴ・テサー(ピアノ)やデヴィッド・J・キーズ(ベース)といったメンバーが加わり、「短いツアー」が行われた。これは、バンドとしての「再起動」の兆しであり、日本のファンにとっては待望の瞬間であった。
その後も、ルネッサンスは日本の地でその音楽を響かせ続けている。2010年には東京の日比谷野外大音楽堂で公演を行い、往年の名曲「プロローグ」や「太陽のカーペット」に加え、新曲「ザ・ミスティック・アンド・ザ・ミューズ」も披露している。彼らの音楽は、時代を超えて日本の聴衆に愛され、静かに、しかし確実にその足跡を残しているのである。
時代の変遷と現在の姿:静かなる航海
商業的圧力とメンバーの離脱:80年代の試練
僕が彼らの航海を静かに見守っていた頃、1980年代に入ると、彼らは荒波に直面した。彼らは「人員の変更と2枚の比較的成功しなかったスタジオアルバム」に苦しみ、1987年には解散へと至る。この時期、バンドはより短く、ポップ志向の楽曲へと舵を切り、シンセサイザーの使用が増加した。これは、彼らの過去のオーケストラ的なサウンドからの明確な転換であり、一部のファンからは「孤高の壮麗さ」が失われたと感じられた。『アジュール・ドール』(1979年)は、その後の変化の予兆となる「過渡期のアルバム」と評された。このアルバムは、彼らの唯一のトップ10シングル「ノーザン・ライツ」を生み出した『ソング・フォー・オール・シーズンズ』の成功の後にリリースされたものであり、多くの期待が寄せられていた。しかし、残念ながら『アジュール・ドール』からのシングルはチャートインせず、アルバムの売り上げも期待外れに終わった。
この商業的苦戦は、ジョン・タウトとテリー・サリバンという、クラシック・ラインナップの重要な柱であった二人のメンバーの離脱を招いた。タウトは個人的なストレスからコンサート中にミスを犯し、ステージを降りた後、バンドを去ることが相互に決定され、長年の友人であったサリバンもそれに倣ってバンドを離れた。さらに、バンドのレーベルであったワーナー・ブラザーズ/サイアーは、『アジュール・ドール』の期待外れの売り上げを理由に、彼らとの契約を打ち切った。サイアー・レコードは1977年にワーナー・ブラザーズ・レコードと新たな契約を結び、その後ワーナーの傘下レーベルとなっていたが、商業的な成果が伴わない場合、メジャーレーベルがアーティストとの契約を見直すのは一般的な慣行であり 、ルネッサンスもその例外ではなかった。
この80年代の音楽業界の変革期は、米国の金融業界、特に貯蓄貸付組合(S&L)危機とも重なる。金利の急激な上昇や規制緩和、不動産市場の変動、そして不正行為などが複合的に絡み合い、多くの金融機関が破綻した時代である。直接的な因果関係は不明だが、こうした経済全体の不安定な状況は、音楽産業にも間接的な影響を与え、レコード会社がより商業的な成功を求める圧力を強めた可能性は否定できない。ルネッサンスの『タイム・ライン』(1981年)や『カメラ・カメラ』(1981年)といったアルバムが、日本で公式リリースされなかったという事実は 、彼らの商業的魅力が低下していたことを物語っている。
解散と再結成:新たな船出
1987年の解散後、アニー・ハズラムはソロ活動に専念し、自身のアルバムをリリースし、世界中でツアーを行った。彼女はソロとして数枚のアルバムを制作し、ルネッサンスのクラシック曲も自身のショーに取り入れた。しかし、ルネッサンスの物語はそこで終わらなかった。
バンドは1998年に再結成を果たし、2001年には『レディ・フロム・トスカーナ』というアルバムをリリースし、日本での短いツアーも行った。そして、2009年の結成40周年を機に、オリジナル・バンドの再結成ツアーが計画されたが、タイミングの問題で実現は困難と判明した。この時、ギタリストであり主要なソングライターであったマイケル・ダンフォードとアニー・ハズラムは、新たなルネッサンスを創造することを決断したのである。彼らには、長年アニー・ハズラム・バンドのキーボーディスト兼プロデューサーを務めていたレイヴ・テサーが加わり、テサーは2001年の日本ツアーにも参加していた。ベーシストのデヴィッド・J・キーズもハズラム・バンドから参加し、2001年の日本ツアーにも携わった。ドラマーには、テサーとキーズと長年の付き合いがあり、印象的な経歴を持つフランク・パガーノが選ばれた。
しかし、この新たな船出もまた、静かな悲劇に見舞われる。2012年にはマイケル・ダンフォードが早すぎる死を迎え、数年後にはデヴィッド・J・キーズが病気療養のため離脱した。これを受けて、マーク・ランバートがダンフォードの後任としてギターを担当し、レオ・トラヴェルサがベースに加わった。ランバートは80年代にもバンドと、またハズラムのソロバンドでも活動していた人物である。
現在のルネッサンス:進化する音の風景
僕が今、彼らの姿を眺めるとき、そこには新たな音が響いている。現在のルネッサンスは、アニー・ハズラム(リードボーカル)、レイヴ・テサー(キーボード)、マーク・ランバート(ギター&ボーカル)、フランク・パガーノ(ドラム、パーカッション&ボーカル)、レオ・トラヴェルサ(ベース&ボーカル)、そしてジェフリー・ラングレー(キーボード&ボーカル)という編成で活動している。彼らは、その卓越した音楽的技巧、力強い5つのリードボーカル、最新の技術を駆使した楽器、そして音楽への深い愛情をもって、新たなサウンドを創造している。彼らはレパートリーを「力強い正確さ」で世界中で演奏しており、このルネッサンスの現行の姿は、それ自体が新しく、そして驚くべきものなのである。
2014年には、ダンフォードの死後初となるアルバム『シンフォニー・オブ・ライト』をリリースし、これは彼が作品に注ぎ込んだ忘れがたいメロディへの証となっている。アニー・ハズラムは74歳を迎えてもなお、精力的に活動を続けており、その歌声は以前のような完璧な響きを保つために努力を要するものの、その芸術的コンテンツは衰えていない。彼らは定期的にライブを行い、ルネッサンス室内管弦楽団との共演を通じて、彼らの「シンフォニック・ロック」の真髄を今に伝えている。彼らの音楽は、依然として「比類なき美しさ」を保ち、多くの聴衆に「癒し」と「安らぎ」を与え続けている。
結論:時を超えて響く調べ
僕の目には、ルネッサンスの旅路は、まさにそのバンド名が示す通り、幾度もの「再生」の物語であった。ヤードバーズの残響から生まれ、クラシック、フォーク、ロックを融合するという初期の夢は、メンバーの変遷を経て、アニー・ハズラムの奇跡的な歌声とマイケル・ダンフォードの静かなる作曲の才によって、真の輝きを放った。彼らの音楽は、ジョン・トゥートのピアノとジョン・キャンプのベースが織りなす緻密な音の構造の上に、壮大なオーケストラのアレンジメントが加わり、聴く者を「音の迷宮」へと誘った。
彼らのライブ・パフォーマンスは、単なる演奏を超え、オーケストラとの共演によって「神聖な空間」を創り出し、複雑な楽曲を完璧に再現する能力は、彼らが単なるバンドではなく、芸術的な探求者であったことを証明している。商業的な圧力やメンバーの離脱といった80年代の試練を乗り越え、マイケル・ダンフォードの死という悲劇を経験しながらも、アニー・ハズラムを中心に「新たなルネッサンス」としてその音楽を紡ぎ続けている。
彼らの音楽は、時代を超えて、聴く者に深い感動と安らぎを与え続けている。それは、単なるプログレッシブロックというジャンルに留まらない、普遍的な美と憂愁の調べであり、まるで遠い記憶の底から響いてくる、静かで力強い呼びかけのようである。ルネッサンスは、その唯一無二のサウンドと不屈の精神をもって、音楽史にその名を深く刻み続けているのである。

Raiders.rocks編集長。30年以上にわたりヘヴィメタル、ハードロック、プログレッシブロック専門誌の編集長を務める。Monsters Of Rock、Wacken Open AirやOzzfest、NearFest、FujiRock、SummerSonic、LoudParkなど、国内外の主要フェスティバルでの豊富な取材経験を持つ。深い知識とバンドが置かれた現場での視点から、ヘヴィメタル、ハードロック、プログレッシブロックの専門情報をお届けします。


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